3.家族の方へ
患者の家族のみなさんへ
痛みという症状は、ほかの人からは見えません。もし発熱しているのであれば、体温計で測ってみれば38度とか39度とかいった数字が出てくるので、家族や周囲の人は、自分の経験から、本人がどのくらい辛いのかについて推察してくれるでしょう。しかし、痛みについては、その大きさを測る装置がなく、痛みや辛さを表す、具体的な数字を周囲の人に示すことができません。
とくに、24時間のあいだ常に痛みが続く、それが何十日も続くとか、凄まじく痛いといった経験は、ほとんどの人がしておらず、そういった状態になることを想像もしたことがないために、この患者が陥っている状況について、周囲の人が理解することはとても難しいです。
まず、強い痛みに襲われて、それを止める方法がないという経験は、ほとんどの人がしたことがないと思います。
患者側は、ずっとそういう状況が続いているのですが、周囲の人は、最初のうちこそ「痛い」という患者の訴えに耳を貸してくれたり、注意を払ってくれますが、そのうちに、「痛い」という患者の訴えに慣れてしまい、「いつものこと」といったように、軽く考えがちになってしまいます。しかし、患者の方は、非常に強い痛みがずっと続いていて、耐え難い思いをしています。
以下に、私の個人的な経験を書くことで、患者の家族の方々に、患者が味わっている苦しみや痛みを少しでも理解していただき、患者さんの痛みを和らげることに役立てばと思います。
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重症になると、患者は体のどこを使っても痛い
具体的に言うと、たとえば「はさみ」を使う場合、はさみで紙をちょきちょきと切るときに、手のひらの筋肉、指の筋肉、腕の筋肉、肩の筋肉、肩甲骨周辺の筋肉までを使います。重症になると、はさみを使うだけで、このすべての筋肉が痛くなります。本当に痛いです。なので、患者がはさみを使うときも、ほんの少ししか動かせないです。
何によらず、ものを動かすときには、使う筋肉全てが痛くなります。はさみもほかの道具も、大きなサイズのものは、より大きく筋肉が痛みます。患者が使う道具はなるべく小さく、力を使わないものの方がいいように思います。
患者になにか道具を買ってきてあげる場合も、なるべく力を使わずにすむものを買ってきて上げて欲しいです。私は、はさみを買ってきて欲しいと家族に頼んで、家族が買ってきた大型のはさみを見て、絶望的な気持ちになったことがあります。
体のどこを押しても触っても痛い
ジーンズのような、体を締めつける服は着られなくなる場合が多く、同じように、体を締めつける下着も着られなくなります。
また、歩くときに、足の裏が生け花の剣山の上を歩いているように痛むという患者も多いです。
私は、家族に「サンダルを買ってきて」と頼んで、家族が、イボイボがびっしりとついた健康サンダルを買ってきたのを見て、絶望的な気持ちになりました。
歩くだけで足の裏が痛いのに、イボイボの付いたものでは、涙が出るほど痛いです。
体全体に常に痛みがあり、しかも体のどの筋肉を使っても、使った筋肉が短時間で痛くなるといった症状は、他の人には共感、共有が難しい苦しみで、健康な人には、患者の訴えが「神経質」とか「気にしすぎ」というふうに受け取られがちです。
しかし、患者は本当に、気が遠くなるほど痛いので、患者の痛みの訴えになるべく耳を傾けて、患者さんのために小さな物を買うときにも、それを使うときに、患者はどの筋肉を使っても痛くなる可能性があるということを考慮して、なるべく筋肉の負担がかからないものを買ってきてあげて欲しいと思います。
体全体に鉛をぶら下げているような重量感がある
重症になり、この重量感という症状が出てくると、体を立てていることが困難になってきます。たとえると、地面がものすごい力を持つ磁石になった感じで、常に強い引力で、体が下に引っ張られている感じです。
布団の上に起き上がっているのも辛く、体全体を地面にべったりとくっつけていないと、辛くてたまらなくなります。布団の上に上半身を起こしているだけで、肩、首、背中、腰までが痛いです。
遊園地のフライングマシンに常に振り回されているような、強いめまい
私の場合、このめまいがひどく、そのためにテレビ画面や、本や新聞を読むことが非常に辛くなり、パソコンもほとんどできなくなりました。私のめまいは、ハンディカメラで映した、ひどく手ぶれのする映像をいつも見ているような感じで、常時船酔い状態にあるようでした。
私は上記のような症状が重なって出たので、たとえば布団から立ち上がるだけで、はじめから痛い首、肩、背中、腰などが、激痛になり、同時に全身に砂袋をつけた重量感があり、立ち上がったとたんに、地球がぐるぐる回っているような強いめまいがやってきました。
手すりをつける工夫
私の家では、自分の寝室が二階にあったので、どうしても一日に数回は階段を上り下りしなければなりませんでした。上記のような症状があったので、症状が重くなったとき、私は家族に頼んで、階段の周辺にすべて手すりをつけてもらいました。
私はもっとも重かったときでも、痛みに耐えれば、なんとか手すりを使い、時間をかければ階段の上り下りができましたが、私よりもっと重症の患者さんでは、階段を使えなくなる人もいます。そういう場合は寝室を一階に置くことなどのほかに、家の改造が必要になることもありえるでしょう。
障子と襖(ふすま)
患者は自分の手を使うときに、手とか腕だけではなく、肩や肩甲骨、背中の筋肉までが痛くなることが多いです。私は、歯ブラシを使うときでさえも肩や腕が痛く、ダンベルを振っているような重さを感じました。
患者がそれまではふつうに使っていた障子とか襖も、開け閉めがスムーズに行かない場合は、患者に強い痛みが発生していることがあります。患者さんが「障子や襖が重い」と言っていたら、すべりを良くするために下に蝋を塗るとか、下に小さな車輪をつけたものにするとか、工夫が必要な場合もあると思います。
食器
同じように、手を使って食事をするときも、瀬戸物の食器を持ち上げるのが痛くなる場合があります。私の場合も、ラーメンを入れた瀬戸物のどんぶりを非常に重く感じられ、持ち上げられるようになるまでには、とても時間がかかりました。
食器も患者さんにとって重く感じられるようなら、プラスチック製にする必要があるかもしれません。
患者にとって、瀬戸物の食器はとても重く感じられ、食器を洗うときにも苦労します。悪化してくると、プラスチックの食器でさえも、中に水が入ると水の重さで洗えなくなります。
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本とハンガー
私の場合、症状が重かったときは、痛みのために、ハードカバーの本を持つことができませんでした。本を無理して持ち運んだときに、そのときに感じた背中や腰に感じた強い痛みがずっとあとまで残って、それまでは何とかできていたこと、たとえば、布団に起き上がってコーヒーを飲むなどができなくなってしまい、かろうじて残っていたそういう楽しみが、長いときには2週間ほども取り上げられてしまったからです。
ただ、目に重い症状が出ずに、本が読める状態の患者さんの場合は、テーブルの上に置かれた本を手前にひきずってページを開けることができれば、本を読めるかもしれません。本や新聞を詠むことは、患者に残された数少ない楽しみの一つなので、「本を読めるけれども本を持ち上げることができない」状態の患者さんには、本を動かしやすい位置においてあげるなど、周囲の協力によって、残された数少ない楽しみを維持してあげることができるでしょう。
同じように患者は、ハンガーにかかった服を、ハンガーごと持ち上げたり、ハンガーから外したりすることも痛いです。うっかりスーツがかかったハンガーを持ち上げたりして、肩から背中に激痛が走り、そのときの強い痛みが2,3週間も続いたりすることもあります。患者が着る服も、周りの人がはずしてあげて、患者が着やすい位置においてあげれば、患者は感じる痛みを少なくすることができるでしょう。
引き出し
私が非常に辛い思いをしたのは、重い引き出しの開け閉めでした。特に、印鑑など何かを探す場合、ものがたくさんあって混乱した引き出しのなかをかき回すような作業は、激しい痛みと、目当てのものが見つからない怒りのために、その場で絶望して首をくくりたくなるくらいの気持ちになりました。
患者さんのまわりの人にぜひ進言したいのは、患者さんが使う可能性のあるいろいろなもの、タオルとかハンカチ、ボールペンとか靴下とか、そういう雑多な物をしまう引き出しの中を整理してあげてほしいのと、患者がそれらを探す時間を最小限に抑えるために、決まった場所に、決まったものをしまっておく習慣をつけてほしいということです。
引き出しの中のものを探す作業は、肘を上げて痛い肩や腕、背中などを無理して使い続けなければならず、線維筋痛症の患者は、腕や肩、首に痛みが出ることが多いので、本当に辛いです。
足元の安全
同じように、重症になると、足の運びがおぼつかなくなるので、患者さんが歩く場所に、余計な荷物とか、ものを置くのは危険だと思います。
万が一、患者さんが足をひねったり、あるいは骨を折ったりした場合、その痛みは通常の人よりはるかに強く、また、普通なら痛みが引く期間が過ぎても、さらにずっと長いあいだに渡って痛んだりします。
同じ理由で、夜、暗い空間を歩くのは危ないので、家の中の明かりは、常に切らさないことが必要だと思います。
患者さんへの精神的なケアについて
上記のような症状が重なって出た場合、患者さんの人生は、ほぼ絶望的になってしまいます。患者さんは歩けないことを我慢し、テレビが見られないのを我慢し、新聞、本を我慢し、外出できないことを我慢し、喫茶店でコーヒーを飲んだり映画を見たり、ちょっと外でお酒を飲んだりという楽しみを我慢し、つまり、それまでの人生で楽しんでいたことを、ほぼすべて諦めなければならなくなります。
私の場合も、上記のようなことはほとんど全て諦め、寝ている部屋の窓から見える、かえでの枝が紅葉したとか、若葉になったとか、そこにスズメが来たとか、そういうことだけを楽しみとして生きていかなくてはならなくなりました。
ほとんどの人がこういう生活を経験したことがないために、たとえば患者のお見舞いに行って、何気なく話す話題が、患者さんの気持ちを傷つけたりすることがありえます。
私の場合、たとえば、「どこそこに美術館ができた、映画館ができた」「こないだ海に行った、そのあとでバーベキューを食べて、それでテニスをして」「最近出た新刊書、封切られた映画が」「こないだ行ったレストランは」「今年の花見は」「今年買った洋服」といった、たいていの話題が、自分が「もう二度とできない」「手に入らない」と諦めた楽しみであり、これらの話題を耳にするたびに、「なぜ自分がこんなことになってしまったのだ」「なぜ自分はそういう楽しみを一生奪われることになってしまったのだ」という絶望や怒り、哀しみにかられ、冷静でいることができませんでした。
患者さんは、そういう楽しみを奪われたことについて、非常に辛い思いをしています。これはとても残酷な事態であり、これらを思い出させるような話題は、患者さんを苦しめます。といって、これらは普通の人がふつうに取り上げる話題であり、これでは患者さんと、日常的な話は何もできないということになってしまいます。
それではお見舞いに行った人が、患者さんと何を話せばいいのかということになりますが、患者さんは自分が楽しみにしていたさまざまな事ができなくなった代わりに、それまでの人生でさまざまに積み上げた経験を持っていることが多いです。線維筋痛症を発症した人は、それまでの人生で、仕事や趣味で多くの経験を持っている人も多く、彼女や彼がそれまで蓄積してきた知識や経験について、話を聞いてあげれば、患者も自分の経験などが役に立ったことに喜びを感じることもあるでしょう。
私の場合は、仕事に関しては多岐にわたる経験をしていたことと、また絵画や美術等について相当詳しい知識がありました。ボランティアで車椅子を押してくれる若い人とそういう話をして、彼らが私の知識や経験を聞いてくれることで、まったく動けない私も「自分が何らかの役に立つ」と思え、とても嬉しかった経験があります。
患者の気持ち
私は上記のような状態に陥ったとき、自分がそれまで楽しみにしていた、本を読むとか絵画や映画を見ること、あるいは文章を書くなどの自己表現による楽しみも失ってしまい、残された楽しみは、聴覚によるものだけでした。
そのときに残っていた能力で、少しでも楽しみを見つけるために、私は家族に頼んで、図書館で落語のCDやクラシックのCDを借りてきてもらいました。そういうときに患者が、家族が借りてきてくれるCDをどれだけ楽しみにしているかについては、普通の人の想像を絶するものがあります。
重症になった患者には、普通の楽しみがほとんど残されていません。健康であったときには何の造作もなくできた繁華街でのショッピングも、パリ旅行も、出来ないという意味では、同じほどに遠い存在です。
そういう意味では、患者にとっては、図書館から借りるCDにもパリ旅行くらいの意味があります。
健康な人にとっては、「たかが図書館で借りるCDなんて」と思われるかもしれませんが、患者にとっては、まさにそれがパリ旅行と同じくらいの、貴重で得がたい楽しみになっているので、絶対に患者のリクエストを間違えないで借りてあげて欲しいと思います。
それだけを楽しみにして辛い毎日を生きているのに、たとえば家族が、聞きたいCDではなく、すでに何度も聞いているCDを間違って借りてきたようなときは、本当に人生に絶望的な気持ちになってしまいます。
そういうときの、「毎日まいにちこれだけ我慢をしているのに、私はこれだけの楽しみの味わえないのか」という患者の怒りや悲しみは、健康な人には理解できないと思いますが、私は家族が間違って違うCDを借りてきたときに、本気で首をくくろうかと思うくらいの怒りと絶望感にかられました。
(左のイラスト:患者は体が非常に重くなり、階段を登るのが辛くなることが多いので、階段の周辺に手すりをつけると上りが楽になりますし、下るときも危険を減らせます。)
(右のイラスト:患者は足の運びが辛くなるので、足元につまづくようなものが置いてあると危険です)
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