管理人紹介


小田博子(エントロピー学会員)

*これまで発表した論考など

・化学物質過敏症支援センター会報 54号、55号
  タイトル:CSと近隣疾患
「線維筋痛症と化学物質過敏症1.2」



・エントロピー学会2011年秋の研究集会
一般講演:
「環境病を考える」
化学物質過敏症などの環境病、湾岸戦争症候群、爆発的に広がる難病との関係



・エントロピー学会2012年春の研究集会
一般講演:
「中枢性過敏症候群(Central Sensitivitiy Syndrome[CSS]」と
公害病・環境病・原発事故による放射能の影響」



・エントロピー学会:学会誌 第72号
「放射能被曝と難病の関係
 環境病と難病、そして福島第一原発事故による被曝の影響」
(内容を下記に採録します)

【覚書・論考】
「環境病」を考える環境病と難病、そして福島第一原発事故による
被曝の影響


化学物質過敏症などの環境病、湾岸戦争症候群、爆発的に広がる難病との関係
小田 博子
始めに

私は「線維筋痛症」という、難病といわれる疾患の患者です。これは全身が凄まじい激痛に襲われる病気です。
私は44歳でこれを発症し、四十代のほとんどを、四六時中激痛に苛まれながら、布団のなかで過ごしました。
50歳を目の前にして、治療実績をあげている医師が福岡にいることを知り、最後の望みをかけて介護者とともに移住して2年間治療し、劇的に回復しました。
現在は完治には至りませんが、文章を書くことなど夢のようなところから、文章も書け、日常生活もなんとかできるまでに回復しました。[1]

この病気は回復不可能といわれ、私も重篤になってからは、読書したりテレビを見るような生活は永久に戻ってこないだろうと思っていました。
この病気は激痛のみならず、凄まじい目眩もあり、テレビや読書さえ不可能になる場合もあります。
そして多くの患者は生涯「激痛でできた棺桶」に閉じ込められ、そこから手も足も出ずに死ぬことを強いられます。
しかし私は劇的に回復し、その事実に驚愕した私は、なぜ一般には回復不可能といわれる病気から自分が回復したのかを調べはじめました。
そして調べる過程で、この病気には現代社会の持つさまざまな問題が介在していることに気がつきました。
なぜ多くの人がこのような病気を発症し、重症患者がたくさんいるにもかかわらず、社会や医療現場が患者を放置しているのかを調べると、そこにはさまざまな問題が存在していることが分ります。
まず、私が発症した線維筋痛症と、環境病との関連をとりあげます。

・爆発的に広がっている環境病
今、化学物質過敏症や、電磁波過敏症、低周波音過敏症などを総称して、「環境病」と呼ぶことが増えました。
化学物質過敏症は、日常生活のなかに存在する微量な化学物質に過敏に反応する症候群であり[2]、電磁波過敏症は、携帯電話やパソコンなど日常にあふれている電磁波に過敏に反応し、低周波音過敏症は風力発電の風車やエアコンの室外機などが発する低周波音に非常に過敏になります。
いずれの症候群も、出現する症状は多種多様です。主なものだけでも頭痛、めまい、のどの痛み、息苦しさ、関節痛、疲労感、睡眠障害、うつ、意欲の低下、不眠などがあります。
私は調べていくうちに、線維筋痛症とこれらの環境病に発現する症状が酷似しており、また、線維筋痛症患者が化学物質過敏症を併発しているケースや、化学物質過敏症の患者に線維筋痛症の症状が強く出ているケースが多いことに気がつきました。[3]
その理由は次章以下で述べますが、このことは、さまざまな環境病が決して軽視できる疾患ではなく、重篤になると日常生活が営めなくなったり、
人生に破壊的影響をもたらす可能性すらあることを示唆しています。
患者数は、化学物質過敏症の場合、2003年に内山巌雄・京都大大学院教授(環境保健学)が行った調査によれば[4]、国内に70万人の患者がいるという結果が出ており、その後の増加傾向や、そのほかの疾患を入れれば、国内には膨大な数の環境病患者がいると推察されます。

・日本の医療現場の問題点

残念ながら、日本の医学界はこれらの環境病に正面から取り組んでいるとは言えません。理由はいくつか考えられます。
その一つは、これら環境病によって引き起こされる多彩な症状は、さまざまな検査機器で検査をしても数値的な異常がほとんど現れないことにあります。
今の医療を担う西洋医学は、診断を検査に頼る傾向が強く、検査で異常が検知されなければ、いくら重篤な状態でも病気ではないということになります。
今の医療は、まず検査をして、検査で異常が出た臓器に、薬物投与や手術などの治療を施すという形態をとっており、検査で異常が出ない患者の場合は、どれほど重篤であっても医療は対応できず、結果としてほとんどの患者が放置されるという結果を招いています。
もうひとつの理由は以下に述べる通り、これらの環境病は、薬物や手術といった人工的に手を加える治療が奏功しないことが多く、逆に、症状の悪化を招くことが多いからと考えられます。

・CSS(Central Sensitivity Syndromes)という疾患概念
日本の医学界ではまだ一般化されていませんが、海外では、これらの環境病を考える上で重要な示唆を含む疾患概念が提唱されています。
2005年に、アメリカでこの概念を病態生理学的に説明した基礎医学書「線維筋痛症とそのほかの中枢性の疼痛症候群(筆者訳)」[5]が出版されました。
日本では現在、基礎医学を学ぶ医師が激減しており、黒字を出すのが難しい基礎医学書の和訳を引き受ける出版社が現れないという事情で、
この和訳はいまだ出版されていません。国内の医師の多くは英語文献をほとんど読まないこともあり、この概念はいまだ日本医学界に浸透していません。
今回の放射能被害によって、一般の医師よりも矢ケ崎克馬教授のような物理学者の方が内部被爆被害に通じていることがはっきりしました。
このように環境変化がもたらす疾患群についても、患者も含めた他の分野の人たちが積極的に関わっていくことが必要です。
この「線維筋痛症とそのほかの中枢性の疼痛症候群)」のなかで、Illinois大学のDr.Yunusは、CSS(Central Sensitivity Syndromes)という疾患概念を提唱しています。
このCSSは、従来の医学にはなかった病態生理学的に新しいパラダイム(枠組み)です。
日本ではいまだこの言葉が浸透していないこともあり、これに適した日本語訳は確定していません。今のところ「中枢感作症候群」という訳がよく使われていますが、この訳は概念の内容を正確に反映していないところがあり、筆者は医師の助言もあり、「中枢性過敏症候群」という日本語訳を当てています。
[6]以下に述べる通り、この概念が表す疾患の患者は、「脳中枢が非常に過敏になる」症状を呈し、それによる多種多様な症状を持つからです。
この新しい疾患概念は、環境病のみならず、現代医学が苦戦している難病を考える上でとても重要な啓示を持つと考えられますが、今回は、当該書の中核をなす第4章および5章を参考にしながら、環境病とそれの関連疾患に的を絞って論考したいと思います。

4章 The Concept of Central Sensitivity Syndromes (中枢性過敏症候群の概念)

5章 The Neurobiology of Chronic Musculoskeletal Pain(Including Chronic Regional Pain)

(慢性局部疼痛を含む慢性筋骨格痛における神経生物学):ともに筆者訳

「中枢」とは、具体的には脳と脊髄を表します。上記の第4章および5章を参考に、中枢がどのように過敏になるかを説明します。
1965年ごろ「痛み」の研究を通じて、通常は苦痛と感じない程度の微細な刺激を繰り返し人体に加え続けると、脳が小さな刺激を大きく感じる現象を生じることが分りました(Wind up現象)。
これは、脳が疼痛感度を増大させる機能を持つことを示しています。
CSS(Central Sensitivity Syndromes「中枢性過敏症候群」)は、人体に繰り返し微細な刺激を加え続けた結果として脳中枢が過敏になり、ささいな刺激に対しても痛みなどの症状を示す症候群です。
Wind up現象が具体的な疾患として表出したものといえます。

CSS患者は、環境からの刺激(温度、臭い、音、化学物質など)や物理的な刺激(機械的・電気的など)、熱さや冷たさによる刺激、触れることによる刺激など、さまざま刺激に対して過敏な反応を示します。現れる症状としては、痛みのほかには各種の感覚異常や不快感があります。CSS患者の特徴として、刺激に対する疼痛閾値(いきち)や疼痛耐性がいちじるしく低下しています。

従来の医学では、痛みを伴う疾患は患部に腫瘍などの不具合が発生し、炎症などがおこり、そのために患部が痛むと考えられてきましたが、CSSは患部になんら異常は発生していません。脳中枢に変化が起こり、脳が過敏になることで小さな刺激を脳が大きく増幅し、大きな痛みと感じます。
脳がいわば誤動作をしていると考えられ、上記のように、CSS患者には「さまざまな刺激に対する疼痛閾値(いきち)や疼痛耐性がいちじるしく低下している」という重要な共通点があります。
「閾値」は、CSSを捉える上で重要な概念です。具体的には「生体に興奮を引き起こさせるのに必要な、最小の刺激の強さの値」ということで、アレルギーなどではお染みです。アレルギー患者が牛乳を飲むと湿疹などの症状が出るとした場合、0,01mlの牛乳を飲んでも湿疹は出ないが、0,1ml以上の牛乳を飲むと湿疹が出るなら、0,1mlがその患者の「閾値」ということになります。

「閾値」が低下しているCSS患者は、常識では考えられないようなわずかな刺激で症状が発生します。
どの量の刺激で症状が出るかを示すのが「閾値」です。健康なら何でもないわずかな刺激を受けるだけで、筋肉痛や関節痛、疲労感、睡眠障害、うつなど、大きな症状になって現れ、それが容易なことでは回復せず、延々と続くのがCSSと言えます。


化学物質など環境から受ける影響としては、従来の医学では「中毒」という概念はありましたが、微細な刺激を人体が継続して受け続けることで脳が過敏になり、さまざまな症状が現れるというメカニズムを、従来の医学界は受け入れてきませんでした。
第5章では、環境を含むさまざまな刺激を継続して受けることによって脳が過敏になることが神経生物学的に説明されています。
たとえば「中毒」であれば、「毒物を体内に取り入れた人のほとんどが何らかの症状を示す」はずですが、このCSSは、たとえ同じ刺激を受けたとしても、症状の出現には個人差があるのが特徴です。これは、刺激に対する耐性、いわば体力が個人によって違うからと考えられます。
これまでは、環境による刺激を受けても具体的な症状があらわれるかどうかに個人差があったため、「環境を含むさまざまな刺激が人体に有害」という確たる証拠が得られにくかったのですが、もし日本医学界がこの概念を取り入れれば、環境からの刺激によってさまざまな疾病を発症することを、医学的に説明できます。
CSSに高い割合で含まれるのは、以下の通りの人たちです。
「性差については女性優位、年齢分布については30歳から60歳」
これは、この層の患者がCSSに多くみられるということで、患者は子供から高齢者までが含まれますし、全体で見れば男性患者も少なくありません。

 以下に、このCSSに含まれる疾患群を示した図を提示します。
一人のCSS患者に、この図に示された症状がいくつも重なって出現することが多いです。CSSの症状の一つに化学物質過敏症がありますし、同じグループに線維筋痛症も含まれます。線維筋痛症患者が化学物質過敏症を併発しているケースや、化学物質過敏症の患者に線維筋痛症の症状が強く出ているケースがなぜ多いのか、この図によって説明できます。このように臨床的には説明できることが、検査機器で数値に異常が出ないことを理由に、多くの医師が、このCSSを「精神的なもの、心の病」、ひどい場合には「詐病」と言いますが、それは医学的には事実ではありません。

次に福島第一原発事故で拡散した放射能の影響について、ぶらぶら病とCSSとの関連から考察します。

・ぶらぶら病はCSSか

ぶらぶら病は肥田舜太郎医師によって提唱された、放射能被曝によって生ずるとされる疾患概念ですが、日本医学界では正式に認知されておらず、本格的な研究がなされていません。そのため本稿ではぶらぶら病とCSSの臨床的な所見を比較し、論考を進めます。

 以下は日本民医連が国連に提出した報告書のなかの「ぶらぶら病」の定義です。[7]

1.被曝によって様々な内臓系慢性疾患の合併が起こり、わずかなストレスによって病症の増悪を現す。
2.体力・抵抗力が弱く、疲れやすい、身体がだるい、根気がない等を訴え、人並みに働くことが困難。
3.意識してストレスを避けている間は病症が安定しているが、何らかの原因で一度病症が憎悪なると回復しない。
4.病気にかかりやすく、かかると重病化する、等。

一方、上記CSS内疾患の一つに「慢性疲労症候群」があります。慢性疲労症候群とぶらぶら病は臨床的な所見が酷似しています。ぶらぶら病の定義のなかで、1.「わずかなストレスによって病症が増悪する」および2.と3.は慢性疲労症候群の症状を表しています。[8][9]
とくに1.「わずかなストレスによって病症が増悪する」および3.は、CSSの典型的症状と言えます。ぶらぶら病もCSSと同様に、通常の検査ではなんらの異常も発見されません。[10]

水野玲子の「未知の環境病をどう捉えるか」[11]では、湾岸戦争症候群、化学物質過敏症、慢性疲労症候群、線維筋痛症(原文では線維筋痛症候群)の類似点が挙げられています。また、肥田舜太郎ほかの「内部被爆の脅威」[12]では、このうち、湾岸戦争症候群とぶらぶら病との酷似について詳しい記述があります。これらの疾患は類似が多く、このことから「ぶらぶら病」は、その症状の一つにCSSを含む、あるいはCSS内疾患に「ぶらぶら病」が含まれるという推論が成り立ちります。

 以上を考慮すると、今回の原発事故による被曝により、さまざまなCSS内疾患が発生することが憂慮されます。

・被曝による遺伝的影響

次に、筆者の例を通じて、被曝による遺伝的影響とCSSの関連について考えたいと思います。

私の祖父は戦前から医師をしており、当時は全国的に結核が蔓延し、祖父は最初の妻を結核で失ったこともあり、生涯レントゲン診断の導入に尽力しました。
しかし当時は医療被曝の害が知られていなかったため、医師たちは放射線防護に熱心ではなく、祖父は相当量の被曝をしたものと考えられます。
祖父の兄弟には目立った健康被害はなかったものの、祖父の子、孫、ひ孫には、心筋梗塞による突然死、斜視、知恵遅れ、バセドー氏病、腎臓病、線維筋痛症(筆者)、小児白血病、口唇裂、生まれつき顔面にこぶがあるなど、さまざまな異常、難病が発生しました。

CSSの発症には個人差がありますが、筆者の例を見ても、被曝による遺伝的影響により、次世代以降もCSSを発現しやすくなることは考えられます。
しかしながら、CSS内疾患は、これまで医療現場では心の病や詐病などと言われることが多く、医学的な研究がなされてきませんでした。
治療も医学界ではほとんど研究がされていません。以下に、CSS患者として闘病して得た体験から、CSSの治療についてかいつまんで述べます。

・CSSの治療

CSSは、従来の西洋医学による治療がほとんど奏功しないという特徴があります。さまざまな刺激に対して脳が過敏になるというCSSの病態を考えると、人工的に手を加える西洋医学治療そのものが、脳の過敏性を亢進させるリスクを含むからです。
人には生来、自然治癒力が備わっていますが、従来の西洋医学には自然治癒力に着目し、それを伸ばすアプローチがほとんど存在しませんでした。
私は歯科医師による咬合(噛み合わせ)治療で劇的に回復しましたが、私の受けた治療も、広い意味ではこの自然治癒力を利用した治療といえます。
自然治癒力は、人間に備わった他の能力と同様に個人差がありますが、西洋医学に限界が見える現在、人に元から備わっている自然治癒力を伸ばすアプローチがいっそう重要になると思われます。

CSSはさまざまな検査で異常が検知されず、そのため西洋医学の枠内では病気ではないという見方が根強くありますが、東洋医学では検査で異常が出ない「不定愁訴」に対して「未病」という概念があり、「未病」への知見が豊富です。
また東洋医学では、人の自然治癒力を伸ばすことに治療の主眼が置かれます。同じく自然治癒力を引き出す治療としてオステオパシーやホメオパシー、鍼灸、気功などの代替治療があります。CSSの治療には、従来の西洋医学の枠組みにとらわれない発想や研究が必要になるでしょう。
私が回復した咬合治療については、なぜ、この治療で難治性のCSSが回復するかを含め、別に発表の機会を待ちたいと思います。
引用および参考

[1]小田博子「線維筋痛症から回復した患者のHP」http://homepage3.nifty.com/fmsjoho/

[2]化学物質過敏症支援センター「相談窓口事業報告書」2002年―2007年。

[3]小田博子「線維筋痛症と化学物質過敏症」化学物質過敏症支援センター会報54.55号、2010年。

[4]内山巌雄「qeesi調査票を用いた化学物質過敏症の全国調査」2003年。

[5]Muhammand B.Yunesほか「Fibromyalgia & Other Central Pain Syndromes」LIPPINCOTT  WILLIAMS&WILKINS 2005年。

[6]戸田克広「線維筋痛症がわかる本」主婦の友社、2010年。

参考:今野孝彦「線維筋痛症は改善できる」保険同人社、2011年。

[7]日本民医連「広島・長崎の原爆被害とその後遺」

[8]厚生労働省 慢性疲労症候群(CFS)診断基準 1991年。

[9]The Centers for Disease Control and Prevention 慢性疲労症候群(CFS)改定基準、1994 年。

[10]肥田舜太郎「全国保険医新聞」第2508号、2011年。

[11]水野玲子「未知の環境病をどう捉えるか」 高木基金レポート, 2004.5.10.

参考:水野玲子「原因不明の症候群に環境病の疑いを(線維筋痛症候群、慢性疲労症候群と化学物質との接点)」公衆衛生2005,8:

[12]肥田舜太郎、鎌仲 ひとみ「「内部被爆の脅威」ちくま新書、2005年。


*参考
エントロピー学会
http://entropy.ac/modules/bulletin/



管理人の個人紹介


1.個人の治療歴(発症から回復するまで)
2.ホームページ開設まで
3.履歴



1.治療歴(発症から回復するまで)

2001年4月11日 線維筋痛症発症
当日、仕事に行っていて、夕方から痛みが発生し、その夜から激痛に変わり、ほとんど眠れず、翌朝には歩けなくなっていました。発症時の状況は患者によってさまざまですが、私の場合はこのように劇的な形で発症しました。

2001年4月 敬愛病院の整形外科を受診
椎間板ヘルニアの疑いありと言われましたが、レントゲン撮影の結果、そのような所見はありませんでした。

2001年7月 山田整形外科を受診
仙骨がずれているとの診断を受け、そこで紹介を受けたカイロプラクティックの整体治療を始めました。その3ヶ月後に50メートルくらい歩けるようになりましたが、それ以上は歩ける距離は伸びませんでした。
このころから私は、自分の感じている痛みが通常のものと違うことに気づき始めました。何か異常なことが起きていると感じた私は、新聞などで、痛みの原因が何なのか、関係がありそうな情報を探し始めました。そして2002年2月に、新聞で「線維筋痛症」の記事を見つけました


2002年3月 国立病院機構東京医療センター
受診リウマチ内科の西海医師により、線維筋痛症の確定診断を受けました。
西海医師は、日本ではまだ誰も線維筋痛症に注目していないころ、最初にこの疾患の論文を発表した、日本では先駆的な存在の医師でした。私はインターネットで西海医師の存在を知り、確定診断を受けることができました。
多くの患者さんが線維筋痛症との診断を受けるまで、相当数の病院、医院を受診していますが、私の場合は比較的早くこの疾患との診断を受けられたことになります。
ここで投薬中心の治療を受けましたが、症状に変化は見られませんでした。


2004年1月 H歯科医院で健康診断を受ける。
自宅近くのH歯科医院で、歯の健康診断を受けました。その歯科医師から体重を乗せて歯を揺さぶられ、その翌日から、強い疲労感、眩暈、重量感、目が眩しい感じなど、交通事故の後遺症にも匹敵するような、重い症状が出始めました。

2004年2月 N病院の心療内科を受診
線維筋痛症を治療してもらえる数少ない病院でしたが、私は化学物質過敏症を併発しており、そこでの投薬中心の治療では、残念ながら症状はよくなりませんでした。薬を飲むたびに、非常に胃が痛む、ものすごい眩暈が出るなど、副作用が出ました。

2004年9月 自治医科大学付属大宮センター受診
あまりにも症状が重く、状態が極端に悪くなり、きっと脳に何か異常が起きているに違いないと思い、自治医科大学付属大宮センターの脳神経内科でMRIを受けました。しかし、大脳には何も異常は起きていないという所見でした。

2005年8月 東京女子医大付属東洋医学研究所を受診
受診したのは、線維筋痛症の治療に理解と熱意を持つ医師で、最初に行った漢方薬の投薬では、やはり副作用が強く出たため、投薬による治療は中止しました。
それ以後は、医師の指導で身体を温め、血流の循環をよくするようにつとめました。痛みはいくらか楽になりましたが、歩けるようになるといっためざましい回復はできませんでした。この医師の指導による「痛みが楽になる」方法は、「介護者の方へ」の記事で紹介しています。


2006年9月 山田歯科医院を受診
山田医師による、大脳指向型(BOOT)咬合療法を始め、劇的に回復しはじめました。

下の写真は2007年4月です。
翼突筋除痛療法を受け始めて、半年足らずでした。
介護をしてくれるヘルパーさんと一緒に、車椅子で福岡に帰るところ。
(羽田空港にて)

下記二枚は、2008年の正月です。
2006年秋のパフォーマンスステージ9の寝たきり状態から回復しました。

2.ホームページ開設まで
心が痛むもの
私が非常に心が痛むものの一つは、保険所に収容されて死を待つだけの犬を写した写真です。
その犬たちが、保健所で屠殺処分を受ける前に、なんとか里親を見つけてやりたい、そういう役所の心づくしで作られたポスターが、ときどき街角に貼られています。
雑種であっても善良そうな瞳をまっすぐにこちらに向けている犬の写真を見ると、涙がこみ上げてきます。
撮影している人を信頼して、じっとこちらを見ているその犬もきっと、やはり保健所に収容されて、死を待つだけの身分なのでしょう。
写真に映っている優しそうな瞳の犬が、その後どうなったのか分かりません。
そういう犬を写した写真を見るたびに、なぜ涙がこみ上げるのか、それは、私がその犬に対してまったく無力だということを自分自身でよく知っているからです。
私はどうやってもその犬を飼うことはできませんし、その優しい瞳をした犬が、もし明日屠殺処分を受けることが分かっていても、私にはどうすることもできません。
二十代のころに会った少女
保健所に収容された犬の写真を見ても涙がこみ上げる私ですが、二十代のころ、私は結核にかかっている小さな少女を見殺しにしたことがあります。
フィリピンの首都マニラにはスモーキーマウンテンという有名な場所があります。
単純に和訳すれば「煙の山」ですが、そこはマニラじゅうのゴミが集められ捨てられている場所で、日本でいえば夢の島のような感じです。
夢の島と大きく違うところは、スモーキーマウンテンのまわりに、集められたゴミのなかから使えるビニール袋などを拾って、それを売って生活している人たちが大勢住んでいるところでしょう。

フィリピンのなかの貧富の格差は、日本人の想像を絶します。広大なサトウキビ農園を持っている富裕層の人たちは、ヘリコプター発着所付きの広い敷地にホームバーを備えた大豪邸を構え、日本人が見たこともないような大金持ちとして暮らしていますが、もう片方の人たちは、トイレもないバナナの葉を葺いた家に住んで、一日14時間働いて100円ほどの賃金ももらえず、それでいてサトウキビの国際価格が暴落すれば、雇い主に首を切られてすぐに飢餓の危機に瀕してしまいます。スモーキーマウンテンのまわりに住んでいる人たちは、もちろん後者に属します。私は、彼らの支援をしている人たちの案内で、20代の後半ごろに、友人たちと一緒にスモーキーマウンテンのまわりに住む人たちを訪ねたことがあります。

そこに住んでいる男性の一人は、私たちに知り合いの小さな少女を紹介してくれました。
彼女はそのとき10歳とのことでしたが、やっと6歳になったばかりくらいにしか見えず、しかも結核を患っていて微熱がありました。
彼女は私たちと一緒にいる間じゅう、こんこんと小さな咳をして元気がなく、大きな声も出せませんでした。
私は、日本でいつも見ている同じ年頃の少女たちと比べて、その姿に衝撃を受けました。私は彼女を膝の上に載せて、その小さな身体を暖めるように、彼女の身体に腕を回しました。
彼女の身体は小さくて細く、熱がありました。

フィリピンと日本では、貨幣価値がもの凄く違います。
日本で1000円出しても一泊二食付きの宿にはありつけませんが、フィリピンに行けば旅行者用の安い宿をいくらでも見つけることができるでしょう。
当時、私は働いていたので、自分の給料をはたけば、その結核にかかった少女の命を救える可能性はありました。
しかし私は自分がそれをすることに、ためらいがありました。
もっと言えば、それをするのは正しくないだろうといった感じがありました。

私は、日本人の立場に立ったまま、日本人だから彼女に対して何かできるというのは傲慢な考え方だと思いました。
本当に彼女を助けられる、あるいは助けるべき立場にいるのは、彼女が所属しているフィリピンという国、そして国民の一人である彼女に責任を持つべき施政者でしょう。

そして私は、膝の上に抱いた、小さくて華奢な身体をした、結核にかかった少女に対して、何もしませんでした。そしてその日の夕食時、あの子はきっと、その日私が食べたような夕食も食べられないのだろうと思い、涙がこぼれ落ちて止められなかった覚えがあります。
そして私は、自分が考えていることは「逃げ」ではないと考えました。
自分が彼女に何もしてあげられないと思うのは、「逃げ」ではなく、自分が、もし彼女のように生死を脅かされている人に、何かしらできる立場になったら、私はきっと、自分がやれることをやる。
そう思って、私は彼女に対して何もしないことを選びました。
十数年後の私は
それから十数年後、私は線維筋痛症を発症して、あのとき膝に載せて抱いた女の子より、もっと悲惨な人生を送ることになりました。
この疾患は、ふつうには難治性と言われていて、私は医師から処方されるどの薬を飲んでも、ひどい痛みを止めることはできませんでした。その逆に、薬を飲むたびにさまざまな副作用が出ました。

もっとも悪かったときの私は、激しい痛みと闘うことが生きていくことの9割以上を占めていました。
寝ている布団のなかで、痛みが少しでも減る手の位置、足の位置、身体の向きを試し、朝から晩までそれを工夫しながら、日が暮れていくような日々でした。
よくなる望みがまったくなかったころ、私は「自死」という希望をポケットに入れて、手の中でそれを握りしめて、「もうこれ以上痛みに耐えられない」と思うたびに、最後の最後はこれがある、だからがんばるんだ、がんばるんだ、と自分に言い聞かせました。

こういった重症患者が、日本には数十万人いることを示すデータもあります。
日本には、スモーキーマウンテンで見た人たちよりもずっと悲惨な人生を生きている人が大勢いることを私は実地で知ることになりました。
そして今、もし私がなにもしなければ、あのとき私は「逃げた」のではないと思ったのが、本当に「逃げた」ということになります。

幸か不幸か、私はまだ健康体には戻っておらず、たいしたことができないことは明らかです。
それでも苦しみのあまり、毎日「死」を考えざるを得ないような状態からは、考えられないような回復を遂げることができました。
今、私は、自分にできることをできる範囲でやることが、あのとき自分が「逃げた」のではないと、自分自身に証明することになります。
このホームページは、そのためにつくったものです。
3.個人履歴
名前 小田博子
略歴 1956年生まれ
東洋大学法学部卒業  
西武百貨店商事入社
通産省(当時)管轄のタイ国経済技術協力協会に勤務
具体的な業務は、日産自動車、新日鐵、ブリジストン、日本IBM、花王、NHK、朝日新聞など、各業界で先進的な業績を上げている企業に協力を依頼して、日本の進んだ製造技術や生産技術(工業計測、産業安全、
CIM、QC(Quarity Contral)、省エネルギーなど)を、タイ国各企業に技術移転する仕事でした。
また、めざましい業績を上げた工場に贈られるデミング賞受賞企業(ゼクセル・アイシン精機など)に、タイ国人研修団を受け入れてもらうなどの業務もしていました。

無線機メーカーに勤務
女性の営業マンは会社創設以来始めてでした。最初の半年に上げた売上高は営業部の新記録になりました。
子供のころは本が好きで、小学生のときには、延べで1800冊くらい読んだと思います。冊数では400冊くらいでしょうか。
また6歳から高校生まではクラシックピアノを習っていました。

高校3年生のときに、卓球で、神奈川県地区大会個人の部で優勝しました。

28歳のときに、作家の小田実さんや、当時衆議院議員だった宇都宮徳馬さんが主導した「日本海・アジア平和の船」に参加して、北朝鮮、旧ソ連、中国に行きました。ほかにも旧ビルマ、フィリピン、タイ、台湾、シンガポール、オーストラリア、フランス、香港、マレーシアなどを旅しました。

その後、元「べ平連」事務局長の吉川勇一さんが中心になって、全行程を記録した本が出版され、記念になりました。私は船内で新聞発行スタッフをしていました。
その他

「日本海・アジア平和の船」実行委員会発行 「不戦への出航」


経済協力団体で働いていた当時、仲間を募って、発展途上国の開発問題、世界と日本のエネルギー問題、食糧問題、日本の産業構造問題、政府開発援助(ODA)問題などについての学習会を主催していました。
1998年に、ケダール・マティマ在日本ネパール大使に招かれ、大使館でのパーティ・公邸の昼食会に出席したときの写真です。
2003年、拉致被害者に対して何かするべきではないかと思い、埼玉県知事選挙全候補者に対して「拉致問題に関して北朝鮮に経済制裁を行うべきかどうか」などについてアンケートを実施しました。その結果を各新聞社に送って読売新聞に掲載されました。
 
                   2003年8月27日(水) 読売新聞埼玉版
2003年 「SAPIO」11月号、The Letters READERS欄にNHKについての文章が掲載されました。
2005年 「国政モニター月報」5月号に「各国報道機関への働きかけを通じて、日本に理解のある国際世論の形成を」、「竹島問題の教科書への明記を進めることが望ましい」という2つの文章が掲載されました。

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線維筋痛症を発症していたあいだ、仕事はまったくできませんでしたが、唯一の例外は、2006年に、この本の下書きを少し書いたことでした。知り合いの編集者に「可能であれば」と頼まれて、痛む腕で資料をめくり、文章を作りました。でも実際に書く作業はとても無理だったので、家族に口述筆記してもらいました。
奥付に「編集協力者」として名前が出て、目が眩むほど痛かった中で唯一やった仕事として、記念になりました。

ポプラ社  ポプラディア情報館シリーズ「天気と気象」


歴史学や心理学、政治や経済、社会問題についての本も読みますが、小説のなかで一番好きな作家を上げるとすればドストエフスキーです。
いちばん興奮した本は、サルトルの「嘔吐」です。彼の実存主義は、希望のないどん底の毎日を送るなかで役に立ちました。
もともと文章を書くのが好きで、30代のころ、原稿用紙1300枚の小説を書き、でも当時は1000枚を越える小説を受け付ける新人賞がなく、講談社に持ち込んで編集者に読んでもらいましたが、残念ながら出版に至りませんでした。
その後も宮部みゆきさんや篠田節子さんなどの作家が育った小説創作教室にしばらく通ったりしたので、好きな題材であれば、長い文章も苦にはなりません。でも、線維筋痛症を発症したことで、好きな文章は一行も書けなくなりました。
どの治療を受けてもはかばかしい効果はなく、従って、死ぬまで二度と書けることはあるまいと思っていました。現在、かなり長い文章が書けるようになったという事実は、驚きと言うしかありません。

映画、演劇も好きですが、いちばん好きなのは絵画です。中世日本画、近代西洋画、コンテンポラリー、ポップアートと、ジャンルは問わないです。
伊藤若沖、北斎や写楽、現代画の梅原龍三郎、安井曾太郎といった巨匠たちから、コンテンポラリーでは日比野克彦やグラフィティアートのミッシェル・バスキア、ポップアートのウォーホル、リヒテンシュタイン、あるいはピカソ、ロートレック、ルオー、モジリアニなど、美術教科書に出てくるような画家も好きです。
カンデンスキーの幻想的な美しさや、彼の影響を受けている版画家の池田満寿夫なども好きです。
個人的に思い入れがあるのは、抽象画家難波田龍起の夭折した息子・難波田文男です。彼の、見ていると胸が痛くなるような、繊細で抒情感あふれる水彩画にとても惹かれます。

病歴

2001年 線維筋痛症 発症
2004年 悪化しパフォーマンスステージ9、介護が必要な、ほぼ寝たきりの状態になりました。
2006年 福岡で大脳指向型BOOT療法を受け始めます。
2007年 劇的に回復しはじめました。
2008年 当ホームページを開設。
性格    非常にお人よしで優しい性格。理不尽な圧力には強いです。
HP開設の頃

2007年の寝たきり状態のころは、痛みのために文章は一行も書けませんでしたし、一生書けることはないだろうとあきらめていました。
大脳指向型BOOT療法をはじめてから、新聞が少しずつ読めるようになり、治療開始4ヶ月後からかなり長い文章が書けるようになりました。

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