管理人の個人紹介
1.個人の治療歴(発症から回復するまで)
2.ホームページ開設まで
3.履歴
1.治療歴(発症から回復するまで)
2001年4月11日 線維筋痛症発症
当日、仕事に行っていて、夕方から痛みが発生し、その夜から激痛に変わり、ほとんど眠れず、翌朝には歩けなくなっていました。発症時の状況は患者によってさまざまですが、私の場合はこのように劇的な形で発症しました。
2001年4月 敬愛病院の整形外科を受診
椎間板ヘルニアの疑いありと言われましたが、レントゲン撮影の結果、そのような所見はありませんでした。
2001年7月 山田整形外科を受診
仙骨がずれているとの診断を受け、そこで紹介を受けたカイロプラクティックの整体治療を始めました。その3ヶ月後に50メートルくらい歩けるようになりましたが、それ以上は歩ける距離は伸びませんでした。
このころから私は、自分の感じている痛みが通常のものと違うことに気づき始めました。何か異常なことが起きていると感じた私は、新聞などで、痛みの原因が何なのか、関係がありそうな情報を探し始めました。そして2002年2月に、新聞で「線維筋痛症」の記事を見つけました。
2002年3月 国立病院機構東京医療センター
受診リウマチ内科の西海医師により、線維筋痛症の確定診断を受けました。
西海医師は、日本ではまだ誰も線維筋痛症に注目していないころ、最初にこの疾患の論文を発表した、日本では先駆的な存在の医師でした。私はインターネットで西海医師の存在を知り、確定診断を受けることができました。
多くの患者さんが線維筋痛症との診断を受けるまで、相当数の病院、医院を受診していますが、私の場合は比較的早くこの疾患との診断を受けられたことになります。
ここで投薬中心の治療を受けましたが、症状に変化は見られませんでした。
2004年1月 H歯科医院で健康診断を受ける。
自宅近くのH歯科医院で、歯の健康診断を受けました。その歯科医師から体重を乗せて歯を揺さぶられ、その翌日から、強い疲労感、眩暈、重量感、目が眩しい感じなど、交通事故の後遺症にも匹敵するような、重い症状が出始めました。
2004年2月 N病院の心療内科を受診
線維筋痛症を治療してもらえる数少ない病院でしたが、私は化学物質過敏症を併発しており、そこでの投薬中心の治療では、残念ながら症状はよくなりませんでした。薬を飲むたびに、非常に胃が痛む、ものすごい眩暈が出るなど、副作用が出ました。
2004年9月 自治医科大学付属大宮センター受診
あまりにも症状が重く、状態が極端に悪くなり、きっと脳に何か異常が起きているに違いないと思い、自治医科大学付属大宮センターの脳神経内科でMRIを受けました。しかし、大脳には何も異常は起きていないという所見でした。
2005年8月 東京女子医大付属東洋医学研究所を受診
受診したのは、線維筋痛症の治療に理解と熱意を持つ医師で、最初に行った漢方薬の投薬では、やはり副作用が強く出たため、投薬による治療は中止しました。
それ以後は、医師の指導で身体を温め、血流の循環をよくするようにつとめました。痛みはいくらか楽になりましたが、歩けるようになるといっためざましい回復はできませんでした。この医師の指導による「痛みが楽になる」方法は、「介護者の方へ」の記事で紹介しています。
2006年9月 山田歯科医院を受診
山田医師による、大脳指向型(BOOT)咬合療法を始め、劇的に回復しはじめました。 |
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下の写真は2007年4月です。
翼突筋除痛療法を受け始めて、半年足らずでした。
介護をしてくれるヘルパーさんと一緒に、車椅子で福岡に帰るところ。
(羽田空港にて) |
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下記二枚は、2008年の正月です。
2006年秋のパフォーマンスステージ9の寝たきり状態から回復しました。 |

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2.ホームページ開設まで |
心が痛むもの |
私が非常に心が痛むものの一つは、保険所に収容されて死を待つだけの犬を写した写真です。
その犬たちが、保健所で屠殺処分を受ける前に、なんとか里親を見つけてやりたい、そういう役所の心づくしで作られたポスターが、ときどき街角に貼られています。
雑種であっても善良そうな瞳をまっすぐにこちらに向けている犬の写真を見ると、涙がこみ上げてきます。
撮影している人を信頼して、じっとこちらを見ているその犬もきっと、やはり保健所に収容されて、死を待つだけの身分なのでしょう。
写真に映っている優しそうな瞳の犬が、その後どうなったのか分かりません。
そういう犬を写した写真を見るたびに、なぜ涙がこみ上げるのか、それは、私がその犬に対してまったく無力だということを自分自身でよく知っているからです。
私はどうやってもその犬を飼うことはできませんし、その優しい瞳をした犬が、もし明日屠殺処分を受けることが分かっていても、私にはどうすることもできません。 |
二十代のころに会った少女 |
保健所に収容された犬の写真を見ても涙がこみ上げる私ですが、二十代のころ、私は結核にかかっている小さな少女を見殺しにしたことがあります。
フィリピンの首都マニラにはスモーキーマウンテンという有名な場所があります。
単純に和訳すれば「煙の山」ですが、そこはマニラじゅうのゴミが集められ捨てられている場所で、日本でいえば夢の島のような感じです。
夢の島と大きく違うところは、スモーキーマウンテンのまわりに、集められたゴミのなかから使えるビニール袋などを拾って、それを売って生活している人たちが大勢住んでいるところでしょう。
フィリピンのなかの貧富の格差は、日本人の想像を絶します。広大なサトウキビ農園を持っている富裕層の人たちは、ヘリコプター発着所付きの広い敷地にホームバーを備えた大豪邸を構え、日本人が見たこともないような大金持ちとして暮らしていますが、もう片方の人たちは、トイレもないバナナの葉を葺いた家に住んで、一日14時間働いて100円ほどの賃金ももらえず、それでいてサトウキビの国際価格が暴落すれば、雇い主に首を切られてすぐに飢餓の危機に瀕してしまいます。スモーキーマウンテンのまわりに住んでいる人たちは、もちろん後者に属します。私は、彼らの支援をしている人たちの案内で、20代の後半ごろに、友人たちと一緒にスモーキーマウンテンのまわりに住む人たちを訪ねたことがあります。
そこに住んでいる男性の一人は、私たちに知り合いの小さな少女を紹介してくれました。
彼女はそのとき10歳とのことでしたが、やっと6歳になったばかりくらいにしか見えず、しかも結核を患っていて微熱がありました。
彼女は私たちと一緒にいる間じゅう、こんこんと小さな咳をして元気がなく、大きな声も出せませんでした。
私は、日本でいつも見ている同じ年頃の少女たちと比べて、その姿に衝撃を受けました。私は彼女を膝の上に載せて、その小さな身体を暖めるように、彼女の身体に腕を回しました。
彼女の身体は小さくて細く、熱がありました。
フィリピンと日本では、貨幣価値がもの凄く違います。
日本で1000円出しても一泊二食付きの宿にはありつけませんが、フィリピンに行けば旅行者用の安い宿をいくらでも見つけることができるでしょう。
当時、私は働いていたので、自分の給料をはたけば、その結核にかかった少女の命を救える可能性はありました。
しかし私は自分がそれをすることに、ためらいがありました。
もっと言えば、それをするのは正しくないだろうといった感じがありました。
私は、日本人の立場に立ったまま、日本人だから彼女に対して何かできるというのは傲慢な考え方だと思いました。
本当に彼女を助けられる、あるいは助けるべき立場にいるのは、彼女が所属しているフィリピンという国、そして国民の一人である彼女に責任を持つべき施政者でしょう。
そして私は、膝の上に抱いた、小さくて華奢な身体をした、結核にかかった少女に対して、何もしませんでした。そしてその日の夕食時、あの子はきっと、その日私が食べたような夕食も食べられないのだろうと思い、涙がこぼれ落ちて止められなかった覚えがあります。
そして私は、自分が考えていることは「逃げ」ではないと考えました。
自分が彼女に何もしてあげられないと思うのは、「逃げ」ではなく、自分が、もし彼女のように生死を脅かされている人に、何かしらできる立場になったら、私はきっと、自分がやれることをやる。
そう思って、私は彼女に対して何もしないことを選びました。 |
十数年後の私は |
それから十数年後、私は線維筋痛症を発症して、あのとき膝に載せて抱いた女の子より、もっと悲惨な人生を送ることになりました。
この疾患は、ふつうには難治性と言われていて、私は医師から処方されるどの薬を飲んでも、ひどい痛みを止めることはできませんでした。その逆に、薬を飲むたびにさまざまな副作用が出ました。
もっとも悪かったときの私は、激しい痛みと闘うことが生きていくことの9割以上を占めていました。
寝ている布団のなかで、痛みが少しでも減る手の位置、足の位置、身体の向きを試し、朝から晩までそれを工夫しながら、日が暮れていくような日々でした。
よくなる望みがまったくなかったころ、私は「自死」という希望をポケットに入れて、手の中でそれを握りしめて、「もうこれ以上痛みに耐えられない」と思うたびに、最後の最後はこれがある、だからがんばるんだ、がんばるんだ、と自分に言い聞かせました。
こういった重症患者が、日本には数十万人いることを示すデータもあります。
日本には、スモーキーマウンテンで見た人たちよりもずっと悲惨な人生を生きている人が大勢いることを私は実地で知ることになりました。
そして今、もし私がなにもしなければ、あのとき私は「逃げた」のではないと思ったのが、本当に「逃げた」ということになります。
幸か不幸か、私はまだ健康体には戻っておらず、たいしたことができないことは明らかです。
それでも苦しみのあまり、毎日「死」を考えざるを得ないような状態からは、考えられないような回復を遂げることができました。
今、私は、自分にできることをできる範囲でやることが、あのとき自分が「逃げた」のではないと、自分自身に証明することになります。
このホームページは、そのためにつくったものです。 |
3.個人履歴 |
名前 |
小田博子 |
略歴 |
1956年生まれ
東洋大学法学部卒業
西武百貨店商事入社
通産省(当時)管轄のタイ国経済技術協力協会に勤務
具体的な業務は、日産自動車、新日鐵、ブリジストン、日本IBM、花王、NHK、朝日新聞など、各業界で先進的な業績を上げている企業に協力を依頼して、日本の進んだ製造技術や生産技術(工業計測、産業安全、
CIM、QC(Quarity Contral)、省エネルギーなど)を、タイ国各企業に技術移転する仕事でした。
また、めざましい業績を上げた工場に贈られるデミング賞受賞企業(ゼクセル・アイシン精機など)に、タイ国人研修団を受け入れてもらうなどの業務もしていました。
無線機メーカーに勤務
女性の営業マンは会社創設以来始めてでした。最初の半年に上げた売上高は営業部の新記録になりました。 |
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子供のころは本が好きで、小学生のときには、延べで1800冊くらい読んだと思います。冊数では400冊くらいでしょうか。
また6歳から高校生まではクラシックピアノを習っていました。
高校3年生のときに、卓球で、神奈川県地区大会個人の部で優勝しました。
28歳のときに、作家の小田実さんや、当時衆議院議員だった宇都宮徳馬さんが主導した「日本海・アジア平和の船」に参加して、北朝鮮、旧ソ連、中国に行きました。ほかにも旧ビルマ、フィリピン、タイ、台湾、シンガポール、オーストラリア、フランス、香港、マレーシアなどを旅しました。
その後、元「べ平連」事務局長の吉川勇一さんが中心になって、全行程を記録した本が出版され、記念になりました。私は船内で新聞発行スタッフをしていました。 |
その他 |
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「日本海・アジア平和の船」実行委員会発行 「不戦への出航」
経済協力団体で働いていた当時、仲間を募って、発展途上国の開発問題、世界と日本のエネルギー問題、食糧問題、日本の産業構造問題、政府開発援助(ODA)問題などについての学習会を主催していました。 |
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1998年に、ケダール・マティマ在日本ネパール大使に招かれ、大使館でのパーティ・公邸の昼食会に出席したときの写真です。 |
2003年、拉致被害者に対して何かするべきではないかと思い、埼玉県知事選挙全候補者に対して「拉致問題に関して北朝鮮に経済制裁を行うべきかどうか」などについてアンケートを実施しました。その結果を各新聞社に送って読売新聞に掲載されました。
2003年8月27日(水) 読売新聞埼玉版 |
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2003年 「SAPIO」11月号、The Letters READERS欄にNHKについての文章が掲載されました。 |
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2005年 「国政モニター月報」5月号に「各国報道機関への働きかけを通じて、日本に理解のある国際世論の形成を」、「竹島問題の教科書への明記を進めることが望ましい」という2つの文章が掲載されました。
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線維筋痛症を発症していたあいだ、仕事はまったくできませんでしたが、唯一の例外は、2006年に、この本の下書きを少し書いたことでした。知り合いの編集者に「可能であれば」と頼まれて、痛む腕で資料をめくり、文章を作りました。でも実際に書く作業はとても無理だったので、家族に口述筆記してもらいました。
奥付に「編集協力者」として名前が出て、目が眩むほど痛かった中で唯一やった仕事として、記念になりました。 |
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ポプラ社 ポプラディア情報館シリーズ「天気と気象」
歴史学や心理学、政治や経済、社会問題についての本も読みますが、小説のなかで一番好きな作家を上げるとすればドストエフスキーです。
いちばん興奮した本は、サルトルの「嘔吐」です。彼の実存主義は、希望のないどん底の毎日を送るなかで役に立ちました。
もともと文章を書くのが好きで、30代のころ、原稿用紙1300枚の小説を書き、でも当時は1000枚を越える小説を受け付ける新人賞がなく、講談社に持ち込んで編集者に読んでもらいましたが、残念ながら出版に至りませんでした。
その後も宮部みゆきさんや篠田節子さんなどの作家が育った小説創作教室にしばらく通ったりしたので、好きな題材であれば、長い文章も苦にはなりません。でも、線維筋痛症を発症したことで、好きな文章は一行も書けなくなりました。
どの治療を受けてもはかばかしい効果はなく、従って、死ぬまで二度と書けることはあるまいと思っていました。現在、かなり長い文章が書けるようになったという事実は、驚きと言うしかありません。
映画、演劇も好きですが、いちばん好きなのは絵画です。中世日本画、近代西洋画、コンテンポラリー、ポップアートと、ジャンルは問わないです。
伊藤若沖、北斎や写楽、現代画の梅原龍三郎、安井曾太郎といった巨匠たちから、コンテンポラリーでは日比野克彦やグラフィティアートのミッシェル・バスキア、ポップアートのウォーホル、リヒテンシュタイン、あるいはピカソ、ロートレック、ルオー、モジリアニなど、美術教科書に出てくるような画家も好きです。
カンデンスキーの幻想的な美しさや、彼の影響を受けている版画家の池田満寿夫なども好きです。
個人的に思い入れがあるのは、抽象画家難波田龍起の夭折した息子・難波田文男です。彼の、見ていると胸が痛くなるような、繊細で抒情感あふれる水彩画にとても惹かれます。 |
病歴
2001年 線維筋痛症 発症
2004年 悪化しパフォーマンスステージ9、介護が必要な、ほぼ寝たきりの状態になりました。
2006年 福岡で大脳指向型BOOT療法を受け始めます。
2007年 劇的に回復しはじめました。
2008年 当ホームページを開設。 |
性格 非常にお人よしで優しい性格。理不尽な圧力には強いです。 |
HP開設の頃
2007年の寝たきり状態のころは、痛みのために文章は一行も書けませんでしたし、一生書けることはないだろうとあきらめていました。
大脳指向型BOOT療法をはじめてから、新聞が少しずつ読めるようになり、治療開始4ヶ月後からかなり長い文章が書けるようになりました。 |